研究の公開について
ここ数年で研究したことをひとまず公開した。
ほとんどメモ書きで文章も精査していないので、今まで公開していなかった。
川村・河村一族は12万人いるらしい。
しかし一族の情報は断片的にしか公開されていない。
本はあるにはあるが、よほどでなければ人の目につくことはないと思われる。
公開する…特にブログにすることで、新しい発見や新しい情報、そして川村・河村一族や関係する人々のお役に立てるかもしれない、知的欲求を満たすかもしれないと思い直した。
京都松田・河村氏。
京都松田、河村氏。
波多野氏の兄が松田の地に行き松田氏へ。
弟が山北の地に行き河村氏になると言うのはおさらい。
波多野ー松田ー河村は源氏に代々仕える名族で京都にしばしば出張していた。
と言うか、当主は京都に常駐していた可能性もある。
領地の方を一族郎党に任せていたかも。
(東北大巻城も同じ。別家を立てて東北河村氏に)。
承久の乱で朝廷監視のため、六波羅探題ができたが、この時に松田ー河村が詰めて職員になった。
この辺から六波羅探題の松田ー河村氏と言うのができ、便宜上京都松田、河村氏と呼ぶ。
松田ー河村と別家で波多野氏がいるようで、これが越前に行ったり、丹波波多野氏になる。戦国大名波多野氏となる。
時代を経て相模松田河村氏、京都松田河村氏、丹波波多野氏は疎遠になっていった。
京都松田河村氏は特に戦争したりせずに、協力しあっていたようだ。
室町時代になり、京都松田河村氏は室町幕府奉行衆になる(右筆とか)。
六波羅探題に代々勤めていた経歴を買われていたのだろう。
松田氏は京都所司代になったり山城守になったりしていて、河村氏はその補佐…家老的な立ち位置だったのかもしれない。
信長の時代は村井貞勝が京都所司代なので、どうも松田、河村(川村?)氏は部下だったようだ。
秀吉時代にも河村氏が淀川(京都ー大坂の川)の治水奉行してたようだ。
本阿弥光悦は松田氏出身。
江戸時代の京都所司代は未調査。
この時に政治から離れた可能性はある。
今でも京都にいる松田河村氏はこの子孫かもしれない
東北河村氏の祖・河村秀清
山北の河村山城権守秀高の四男
四郎秀清が、奥州合戦で武功があり、本家と別で東北に領地を与えられた。
大巻城と他にいくつか領地があった。
これが東北河村氏の祖。
大巻城河村氏は斯波大崎氏の家臣となる。
斯波大崎氏滅亡で、河村氏は川村氏と名を変え散り散りになる(推測)。
この一部が津軽為信に登用されたとみた。
もしくは他の東北河村氏が津軽為信に登用され、川村と名乗ったか、どちらか。
津軽為信が大名になるころの資料が
青森県にないようだ。戦国時代で資料が整っていないのだろう。
斯波大崎氏はサミットがあった。
大崎市に電話したが、サミット資料はもうないとのこと。
斯波大崎氏の本拠地、高水寺城跡と盛岡城はすぐ近く。
滅亡した時、南部の傘下に入った可能性もかなりある。
南部家臣になってから津軽為信独立についていったかもしれない(旧斯波大崎氏家臣で肩身がせまいとか)。
津軽川村氏と新田開発
新田開発まとめ
◎津軽川村氏は3家
馬廻右筆
帯刀家 本家??
久馬家
どちらかが、いとこのおばさんに繋がりかつ直系に近い家
伊賀?家
新田開発 御目見以下
在地領主
おそらく登城しない。
久栗坂川村一族が移住してきたのは
・新田開発
・黒石藩成立による藩内領地移転、もしくはそれに伴う玉突き移転で久栗坂へ。
・飢饉で人口減のため穴埋め
・海難事故でー
・遠洋漁業ー現地滞在ー穴埋め
・蝦夷警備ー穴埋め
◎横間組
横間村を新田開発→武士化?
横間村出身の横間氏?
野内、浅虫を新田開発。
久栗坂は?
・開発終了
・他の組が開発
川村一族との関連は不明。
横間組が横間村出身で横間氏だと
川村組があって伊賀?一族になるが、
川村組はない。
○○組は○○斑か、○○課程度の意味のような気もしてきたな。
これだと代々組の名前が同じで課長が時代によって変わる。