家祖・河村秀高
河村秀高は河村家祖だが、
藤原師実の家司であった。
師実は頼通の嫡子。
関白の家の筆頭家老であった。
山城権守
これだと河村城には、ほとんどいまい。
ずっと京都にいて、摂関政治を支えたり朝廷へ使いしていたことになる。
10円の裏の鳳凰堂…
しょっちゅう行っていたに違いない。
家祖 河村秀高は
従五位下 山城権守
「権」は規定の人数より多いと実務につかない。
摂関家の家司なので、河村城におらずほとんど京都にいたと思われる。
師実の屋敷は二条城の東側というのもわかった。
白河法皇にも会っていたに違いない。
これ以降波多野、松田、河村の誰かは従五位下だった。
我々は武家貴族の家と魂を継いでいるのだ。
実務としては
六波羅探題評定衆なので、いつもここにいただろう。
近くに邸宅があったらしい。
前に近くの神社⛩の話をしたが、
俺は東北と相模から遠路はるばる上洛して神社修復して京都との関係を持っていると思った。
そうではなく、常は京都にいてたまに領地に帰るような感じだったのだろう。
和田合戦
13人の1人、和田義盛の反乱
で幕府北条側と和田側に別れて戦い、
波多野松田河村一族はやや衰退した。
しかし、承久の乱で幕府側の前線にいて功績を上げ、
一族は全国に散って行った。
この時に苗字が広がった。
(大巻河村氏は頼朝時代から)。
同じように所領が大きく変化して
波多野松田河村なら苗字が変わったものも多かったと思われる。