河村氏以前〜佐伯氏
父経資
平忠常の乱
頼信に仕える
寄進荘園
→在地領主へ
源氏に重宝されるのはこのためか
経範の父、経資が
源頼義が相模守になったときの現地代官、目代になった。
(佐伯氏の分家で身分が低いのだろう)
これ以前は京都にいたと思われるが、ここから土着し、相模の武士になる。
平忠常の乱で功があった。
その後、前九年の役の黄海(きのみ)の戦いの際に佐伯経範は30年以上頼義に仕え60代。
岩手県一関市藤沢町に黄海川というのがある。
大巻城にそれなりに近い。
絶対絶命のピンチに頼義、義家(八幡太郎。頼朝、足利、新田、徳川?の祖)の身代わりになり佐伯経範は討死。
義家は逃げ切った時の刀を宝刀とした。
これが髭切(鬼丸とも。源氏重代の刀。足利将軍家も代々所持。現在は京都の北野天満宮にある。)
前九年の役の活躍により、頼義が源氏棟梁となる。
後年、波多野氏は頼朝の父義朝に仕えて妹を側妻に出し、頼朝の兄朝長を産む。
波多野氏は京都と繋がりがある文武両道方だったり、源氏と親しかったりするのはこのため。
相模の在地領主の中では格が高い。
一部、道元について行き越前に移転する。
それは松田、河村に受け継がれ
頼朝〜実験北条氏〜新田氏〜後北条氏も頼った。
まだ調べていないが、波多野氏は室町幕府奉公衆になった(つまり側近)。
鎌倉殿の13人が、鎌倉幕府で一番勢力があると思われるが、その次点くらいは勢力があり、かつそれなりに生き残っている。
室町時代の足利将軍家の分家、斯波氏は
前九年の役を好例とし、合戦のあったこの斯波の地を姓とした。
(現在、岩手県紫波郡。)
頼朝時代から河村城本家から分家した大巻河村氏も、当然この流れは解っていて、誇りに思いながら生き残り、斯波氏に仕えたであろう。
謎が残る。
上記だと前九年の役以前から佐伯氏は源氏を支えてきたのだが、波多野氏は途中から藤原秀郷の子孫を名乗った。
名誉なら置いとくはずだが…