川村・河村一族の系譜

川村・河村一族の系譜について

なぜ川村氏は久栗坂に来たか2

◎なぜ川村氏は久栗坂に来たか

久栗坂村は少なくとも貞享元年(1684)以前にはあった。
慶長にはあった?

350石 貞享元年

1809年黒石藩成立
平内の飛地を整理、役人が移動。
平内は山間で、開発が終わっているため平内には土地がないため久栗坂川村御三家が久栗坂に移動。
特典がついている(小金持ち?)

そのため、久栗坂川村御三家は後発組。


久栗坂の中での序列は上の下か
久栗坂が350石なので、序列が上の御三家でも数石しかないと思われる。

・なぜ移動先が久栗坂?
調査中
・なぜ漁師?
御三家は土地がある分家は土地がなく、1石以下のため、やむを得ず漁師。

仮に五公五民とすると年貢が175石
残りの175石を村人50人弱(地図から概算)で割る計算。
不作だと最悪


1800年
新田開発
蝦夷地開発、警備
不作 蝦夷地に出張

川村善之進直良

川村善之進直良
1925?〜1968?
(数え年か不明)
幕末〜明治期の津軽川村家本家当主か。衆議院代議士

理門の子。
秀才で弘文館に留学した。
詩文掛りとなり幕府から手数料をもらった。
帰藩後、稽古館の学士となる。
明治元年、貢士(選挙前の衆議院)になり京都へ登るが病死。
享年43

京都に登る際に彰之助と名を改めた。

大巻河村氏

大巻河村氏について。

斯波大崎氏分家の高水寺斯波氏に1396年
河村氏は傘下に入った。
大巻城を明け渡し、佐比内館(城)に移動。

1588年最後の当主
斯波詮直が南部信直に敗北し、滅亡した。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/斯波詮直
https://ameblo.jp/napo-jou/entry-12598909091.html

佐比内館に拠点を移していた河村喜助?秀政が斯波詮直を逃したとある。
その後帰農。

河村一族は南部や伊達に仕えるもの
そうでないものに別れ、東北に散った。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ou_kawam.html

本家は工藤氏に養子入り
(名字をごまかすためか)

家祖・河村秀高

河村秀高は河村家祖だが、
藤原師実の家司であった。
師実は頼通の嫡子。
関白の家の筆頭家老であった。
山城権守

これだと河村城には、ほとんどいまい。
ずっと京都にいて、摂関政治を支えたり朝廷へ使いしていたことになる。

藤原頼通道長の子で、平等院を作った人。

10円の裏の鳳凰堂…
しょっちゅう行っていたに違いない。

 

 

家祖 河村秀高は
従五位下 山城権守
「権」は規定の人数より多いと実務につかない。

摂関家の家司なので、河村城におらずほとんど京都にいたと思われる。
師実の屋敷は二条城の東側というのもわかった。

武家貴族だ。
殿上人だから直接天皇に拝謁できる。

白河法皇にも会っていたに違いない。

これ以降波多野、松田、河村の誰かは従五位下だった。

後北条氏の松田憲秀は
従五位下 左衛門佐 尾張

我々は武家貴族の家と魂を継いでいるのだ。

実務としては
六波羅探題評定衆なので、いつもここにいただろう。
近くに邸宅があったらしい。

前に近くの神社⛩の話をしたが、
俺は東北と相模から遠路はるばる上洛して神社修復して京都との関係を持っていると思った。

そうではなく、常は京都にいてたまに領地に帰るような感じだったのだろう。

和田合戦
13人の1人、和田義盛の反乱
で幕府北条側と和田側に別れて戦い、
波多野松田河村一族はやや衰退した。

しかし、承久の乱で幕府側の前線にいて功績を上げ、
一族は全国に散って行った。

この時に苗字が広がった。
(大巻河村氏は頼朝時代から)。
同じように所領が大きく変化して
波多野松田河村なら苗字が変わったものも多かったと思われる。

河村氏以前〜佐伯氏

長久年間
1040〜43
源頼義 相模守
経資 目代(現地代官)

父経資
平忠常の乱
頼信に仕える

寄進荘園
→在地領主へ

佐伯経範
鎮守府軍監
源頼義に30年以上仕え

前九年の役黄海の戦いで死亡
60歳すぎ
義家と髭切

源氏に重宝されるのはこのためか

 

経範の父、経資が
源頼義が相模守になったときの現地代官、目代になった。
(佐伯氏の分家で身分が低いのだろう)
これ以前は京都にいたと思われるが、ここから土着し、相模の武士になる。

平忠常の乱で功があった。

その後、前九年の役黄海(きのみ)の戦いの際に佐伯経範は30年以上頼義に仕え60代。
岩手県一関市藤沢町黄海川というのがある。

大巻城にそれなりに近い。

絶対絶命のピンチに頼義、義家(八幡太郎。頼朝、足利、新田、徳川?の祖)の身代わりになり佐伯経範は討死。

義家は逃げ切った時の刀を宝刀とした。
これが髭切(鬼丸とも。源氏重代の刀。足利将軍家も代々所持。現在は京都の北野天満宮にある。)

前九年の役の活躍により、頼義が源氏棟梁となる。

後年、波多野氏は頼朝の父義朝に仕えて妹を側妻に出し、頼朝の兄朝長を産む。

波多野氏は京都と繋がりがある文武両道方だったり、源氏と親しかったりするのはこのため。

相模の在地領主の中では格が高い。
一部、道元について行き越前に移転する。

それは松田、河村に受け継がれ
頼朝〜実験北条氏〜新田氏〜後北条氏も頼った。

まだ調べていないが、波多野氏は室町幕府奉公衆になった(つまり側近)。

鎌倉殿の13人が、鎌倉幕府で一番勢力があると思われるが、その次点くらいは勢力があり、かつそれなりに生き残っている。

室町時代足利将軍家の分家、斯波氏は
前九年の役を好例とし、合戦のあったこの斯波の地を姓とした。
(現在、岩手県紫波郡。)

頼朝時代から河村城本家から分家した大巻河村氏も、当然この流れは解っていて、誇りに思いながら生き残り、斯波氏に仕えたであろう。

謎が残る。

上記だと前九年の役以前から佐伯氏は源氏を支えてきたのだが、波多野氏は途中から藤原秀郷の子孫を名乗った。

名誉なら置いとくはずだが…

なぜ川村一族が久栗坂に移動したか?

なぜ川村一族が久栗坂に移動したか?


◎新田開発説
https://yuki.liblo.jp/archives/18016305.html

享保13(1728)年に野呂冶五右衛門が根井村の田屋を新田開墾の際に勧請したと伝えますが、貞享4(1687)年検地水帳によりますと、八幡社地がみえますので、それ以前の創建とも考えられます。

1596年に初代津軽為信の時代から新田開発している。
この時代はウラがとれない。

貞享4年(1687)〜享保13年(1728)は4代津軽信政、5代信寿の時代で、大規模に新田開発が行われた。
また黒石藩が成立したのもこの時期。

川村氏の1家は概算ながら1800〜1820年くらいまで家系図が追え、この数代前に平内から久栗坂に来たらしいので、話の辻褄は合う。

 

◎飢饉説
要検証

津軽から北海道へ移民する川村氏1

後志 積丹 古平

昭和3年北海道鰊業労働事情

美国町 鰊漁業株式会社

漁夫は3ヶ月くらいの期間給
古平 中間

道内 高め 専業?
内地 低め+農業など

食糧は雇い主持ち
給料悪くはない

○九一二八分配
経営者が九
現物支給
明治20年現金支給
岩村通俊 道長官の時
九一はやる気でる

○銀行
個人事業網元なので貸しづらい
請負人 経営者?
株式会社化

青森県 富山県 出稼漁夫取締規則
約束守る 金払う

募集の旅費、宿代、飯代、お土産
売上の経費

○前借金
鰊漁業は特殊な技能
特殊な地域から募集する
(特定地域?)

青森県
残業
温情主義 
貸与分配
使いすぎ防止

6割は契約更新する

女工、炭坑夫よりだいぶまし?

積丹あたりは慶長には鰊がとれた
松前藩領地

明治で場所請負制解体
→漁浜の私有
積丹半島近郊に移住
(出稼ぎしなくて良い、個人事業主になれる。)

大正でニシンが取れなくなる
辞めていく
昭和
沖合漁業 船入澗工事
防波堤 港